吉本隆明さんとの至福の3時間――内省の言葉(自分との対話)はいまとりわけ大切だと思う

 7月19日の土曜日、冷房にやられてしまったらしくのどがいがらっぽいのだが、昼過ぎにいそいそと外出し、三軒茶屋にある昭和女子大学人見記念講堂を目指す。今日は待ちに待った吉本隆明さんの講演会「『ほぼ日』10周年記念企画 芸術言語論 ――沈黙から芸術まで――」なのだ。

 吉本隆明さんについて、いまさら紹介するまでもないだろう。間違いなく戦後を代表する知識人――詩人・評論家・思想家のお1人であり、こういう言い方はあるいは語弊があるかもしれないが、本質的な意味における最も良質なリベラリストだと思う。ふりかえれば僕は折に触れて吉本さんの著作をひもといてきたんですよね。とくに10代末から20代半ばにかけて、いろいろあって精神的に参っていたときには、『言語にとって美とはなにかⅠ Ⅱ』のような言葉や文学作品を扱った吉本さんの著作がさながら心の杖のように僕の足取りを支えてくれた覚えがある。

 午後2時10分、車いすの吉本さんが登壇される。その声には張りがあり、言葉づかいはああ、やっぱりリューメイだ。そして講演の内容も実にスリリングだった。吉本さんの数十年間にわたる思想的営々なかでも言葉や文学作品の意味と価値についての考察がどのようなモチーフに貫かれていたのか、自らの言葉で語ってくれたのだ。

 ――すぐる戦争中、徹底的に戦争を継続すべきだという激しい考えを抱いていた吉本さんは、勤労動員で富山県魚津市の日本カーバイドの工場にいたとき玉音放送を聞き敗戦を知る。茫然とした吉本さんは寮に帰り、独り泣いたという。やがて世界を総体として知る思想的方法をまったく知らなかったことに気づき、「これがわからないければ生きているかいはない」と、5〜6年間アダム・スミスからカール・マルクスに至る古典派経済学について徹底的に勉強する。そして勉強によって獲得した世界を知る方法論と、もともと持っていた文学的素養を結びつけ、吉本さんならではの思想的・批評的取り組みを開始する。

 言葉が持っている本質的な特性をその発生に立ち返って把握し、言葉による文学作品の価値をとらえようとした『言語にとって美とはなにか』、私たちはなぜ国家というものを持ってしまったのか、その成り立ちを共同的な幻想(観念)の発展過程としてとらえようとした『共同幻想論』……。若いころに夢中になって読んだ代表的著作がどのような内発的動機によって生まれたのか、力強く語るその言葉を聞いて僕は不覚にも涙がこぼれそうになってしまった。

 午後5時すぎ、講演が終了。あっという間の3時間で、掛け値なしにすばらしい体験だった。だってあの吉本さんと同じ時間、同じ空間を共有できたのだから、これはやはり人生における貴重な幸運ですよね。以前、糸井重里さんとトークセッションでご一緒させていただいたとき、吉本さんの講演集の刊行や講演会の企画を本当に大事に考えておられる様子だった。その糸井さんのお気持ちが手に取るようにわかるイベントだったと思う。

 というわけで、数ある吉本さんの著作の中から、恐れ多くも、あえて3冊を推薦いたします。


『言語にとって美とはなにか』
 言葉って不思議ですよね。ある言葉がなぜか無闇に心にしみたりする一方で、数千年にわたる人類の文化的営み通してコミュニケーションの道具として高度に洗練されてきたはずなのに、しばしば「言いたいことをうまく伝えられない」「気持ちとは別のことを言ってしまった」というコミュニケーションの問題に直面してしまう。そんな言葉の不思議さを言葉が生まれた場所にまで立ち返って分析し、言葉がなぜ人を感動させるのかを解き明かそうとした吉本さんの代表作です。角川ソフィア文庫から刊行されています。


共同幻想論
 はっきり言って難解です。僕はこれまでに3回読んだけれど、理解できないくだりはいまだに少なくないし、また、恐れを知らずに言えば論理的に矛盾しているところもある気がします。でも私的な個人の観念領域(私的幻想)と、夫婦など対になった人たちの観念領域(対幻想)と、共同体の観念領域(共同幻想)とは位相が違うのだという論の設定には目から鱗が何枚も落ちましたね。こちらも角川ソフィア文庫から出ています。


CD&BOOK『吉本隆明の声と言葉。 その講演を立ち聞きする74分』(HOBONICHI BOOK)
 講演会場で購入し、帰宅後さっそく聞きました。面白いですね。吉本さんの講演録からさまざまな言葉を抜き出して構成したCDで、こういう吉本さんの読み方もあるんだなと思いました。