恥ずかしい!「憮然」の意味、誤解していた――国語には歴史的視点も時に必要だと思う

 皆さんは「憮然」の正しい意味、ご存知ですか。恥ずかしい話だけれど、僕は意味を誤解していて、腹を立てている様子を示す言葉だと思いこんでいた。正しくは失望してぼんやりすること。それを知らずに「カズヒロは憮然とした目でミキを見た」などとシナリオのト書きに書いたりした記憶がある。無知って怖いですね。作家・編集者は本来、言葉のプロでなければいけないのに情けない限りです。


 いきなりなんでこんな自虐的な告白をしたかというと、文化庁が先月下旬に発表した「国語に関する世論調査」の結果が実に興味深く、かつ示唆的だったからである。それによれば語句や慣用句についての誤解や用法の混乱は想像していた以上に幅広く、根深いものだった(人のことを言えないけれど)。

 例えば、本来は意見が出尽くして結論の出る状態になることを指す「煮詰まる」を、議論が行き詰まってしまった状態だと誤解している割合は20代で69.5%、39代で73.0%に達したという。
 また、話の要点や音楽の聞かせどころを示す「さわり」を、話や音楽の最初の部分だと勘違いしている人の割合は全年代の55.0%を占め、僕も誤解していた憮然についても、腹を立てている様子だと思いこんでいる人は全体で70.8%もいた。全年代を通して3割しか正しい意味を知らなかったというのは(いささか自分のことを棚に上げているきらいがないではないけれど)、ちょっと異常な感じがする。


 こうした誤解や混乱にはさまざまな要因が絡み合っているのだろう。もともと日本語が難しいということもあるかもしれない。それを踏まえつつも僕があえていいたいのは、国語の授業などで、もっと歴史的な観点を踏まえて言葉の使い方を教えたらいいのにということである。いや……歴史的な観点というとちょっと大げさですね。要するにその言葉が生まれた経緯を知ることができれば、誤解や混乱はかなりの程度、改善できるのではないかということです。

 例えば「さわり」は浄瑠璃用語に由来する。義太夫節浄瑠璃のなかに取り入れた、義太夫節以外の流派の聞かせどころを言い、他の流派に触る(さわる)ことを語源としている。それが浄瑠璃のいちばんの聞かせどころを指す言葉として用法が広がり、やがて物語や話の要点などにも使われるようになっていった(『暮らしのことば 語源辞典』山口佳紀編 講談社刊を参照)。

 ……って、ちょっと偉そうでしたね。僕自身、人のことを言えないのだ。もっともっと言葉について勉強しないと。それはそうと『暮らしのことば 語源辞典』は面白いですよ。なぜバカ貝のむき身を青やぎというのか、なぜ酒飲みの人を左党と言うのか、目から鱗が“取れる”じゃない“落ちます”。ちょっと(というかかなり)重いけれど、旅行に携えていくのもいいかもしれない。


p.s.
コメントをいただいた皆さん、本当にありがとうございました。僕の日記についてのご感想やご意見、とても励みになります。ブログにもだいぶ慣れてきたので、これからはもう少し、アップする頻度を上げようかなと思っています。